The First Cry of Atom Today is the first day of the rest of my life.

マイノリティ・リポート

この夏にあったことだ。

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一般的に社会人が半ズボンを履いて会社へ行くことは「正しくない」ことだと考えられている。 でもこの夏はとっても暑かったので、半ズボンがどれだけ許されるのか知りたいということもありいろいろなズボンで会社に行ってみた。 長ズボン、七分丈、膝の見える短パン。長さや柄を混ぜこぜにして出勤してみた。

そうしたところ、柄やメーカーにかかわらず膝が見えると「それ、(会社に履いてくるの)大丈夫?」と聞いてくる人がいることがわかった。 なるほど、膝が見えるとダメらしい。というわけでいちいちめんどくさいので夏の後半はどんなに暑くても七分丈にすることにした。

「正しい」と「正しくない」

ところでどうして、短パンは「正しくない」と判断されて、長ズボンは「正しい」と判断されるんだろうか。 どうして、規則に「反している」、「反していない」と言われないんだろうか。あるいは規則がどうして「正しい」と判断されるんだろうか。 社会人としてスーツを着てくることが「正しい」と考える人は多いと思う。でもどうしてそれを「多くの人がやっているから」とか、「規則で決まっているから」 とか言わないんだろう。どうして「正しい」という価値が入ってしまうんだろう。

もし僕が社会人としてスーツは「正しくない」じゃないと言ったらどうなんだろう。

「そんな風に思うやつはお前だけだ」と言われるかもしれない。 だとしたら、スーツを着る理由は「正しい」からではなく、「大勢がそうしている」からだ。

「昔からそうだったんだ」と言われるかもしれない。 だとしたら、スーツを着る理由は「正しい」からではなく、「昔からそうしている」からだ。

「スーツには社会人として必要な機能が備わっているからだ」と言われるかもしれない。 だとしたら、スーツを着る理由は「正しい」からではなく、「社会人として必要な機能が備わっている」からだ。

僕が言いたいのは「正しい」、「正しくない」という価値判断をむやみに加えて論理的な理由付けをうやむやにしてしまうのは良くないことだと思うということ。

「正しい」、「正しくない」は人によって違う。 でもポケットがいっぱいあって便利というのはだれにとってもほぼ同じ感覚だ。

何か規則を決めたり、考えを広めるときに「正しい」というラベルをはらないとそれを広めることが難しいと感じることがある。 だから人はむやみにこれは「正しい」、あれは「正しくない」ということを必ず言ってしまうのだと思う。

別にいいと思う。「正しさ」なんて大義名分をはらなくても、理屈が通っていれば。 「便利だから」、「暖かいから」、「毎日着る洋服に迷うことがないから」、「どんなお店にも入れるから」。 それでいいじゃないか。

桃太郎がいなければ鬼もいない

結果として一緒じゃないかと思うかもしれない。理屈が通っていようが通っていまいが、お前がスーツを着ろと言われることは同じじゃないかと。 でも全然違うんだ。正義の味方は悪の秘密結社を必要とする。

アンパンマンはバイキンマンが必要だし名探偵コナンは殺人犯が必要だ。桃太郎では鬼がいなければ話ははじまらないし、ショッカー軍団がいなければ仮面ライダーは何もしないだろう。

「正しい」意見は必ず「正しくない」意見を必要とする。

彼らのせいで必ず悪者が作られる。確かに「作られる」。 本当は正義の反対側はもうひとつの正義にすぎない。「正しい」といった瞬間に「正しくない」意見ができる。そして、「正しくない」意見を排除しようとする。 本当はもうひとつの「正しさ」であるはずの意見が排除される理由になってしまう。

「暖かい洋服だから」という意見に「寒い洋服でいい」という意見が間違っているとも劣っているとも思わない。

ただ「正しいから」と言ってしまうと「正しくないものでいい」というのはなんだかおかしい。本人は正しくなくていいと思っているのかもしれないが、僕は言ってあげたい。

「君の意見も同じように正しいんだ」と。

だから決して「正しい」意見というものを言わないで欲しい。半ズボンを履くのも「不快に感じる人がいるから」とか、「風邪をひきやすいから」とかそう言って欲しい。 決してそれらが「正しい」わけではないけれど。