久しぶりに日本語で書いてみる。 言葉のリズムが日本語でないと掴めない箇所があるので、やっぱり自分の母国語は日本語なんだとつくづく感じた。 言葉のリズムというのはなかなか掴みづらくて、僕の中では「つい口ずさんでみたくなる言葉」が最もリズムのいい言葉だと思っている。一昔前でいうと『声に出して読みたい日本語』なんていうのが流行ったけれど、あれに近いかもしれない。ただ僕の感覚はもっと俗っぽくて巷で流れているくだらないCMソングなんかはわかりやすい「つい口ずさんでみたくなる言葉」なんじゃないかと。

さて、手段の目的化と禅のお話。

大抵の場合は生きていく上でそれが長期的であれ、短期的であれ何らかの目的を持っている場合が多い。この大学に入ろう、この大会で優勝を目指そう、会社で出世しよう、お金持ちになろう。 まず目的があって、それを達成するための手段がある。僕は学校や家庭でそれを教わってきたし、友達の横顔や先輩の背中からそれを感じとっていたかもしれない。なんにせよその考えは今でも僕の頭に染み付いている。

特に「練習と本番」は人生の初期において最も端的に「手段と目的」を具体化させてくれるもののひとつだと僕は思う。今まで生きてきて何度もこの「練習と本番」のサイクルを味わったし、それは今でも変わっていない。何か自分にとって特別な「本番」を用意して、それに向かって具体的に「練習」をしていくというのは、何をしていいかわからない自分のような子供にとっては生き方の答えを教えてくれるような黄金のサイクルに見えた。

ただ僕は本番が嫌いだった。

僕にとっては本番は二の次だった。結果を出すためのプレッシャーや緊張、結果を見届けて興奮や挫折を味わうこともある。いい結果が出れば嬉しいし、そうでなければ落ち込んだりもする。 そのことが嫌だった。 結果を出すことよりも、毎日続けられたことが楽しかったし自分にとって最も充実した時間になっていた。結果なんかでてしまってその毎日が終わってしまうことが残念でならない。もちろん毎日続けられたのは「本番」という締め切りがあったからであって、先の見えないイバラの道を血を滴らせながら進む勇気は僕にはない。終わりが分かっていたから続けられた。毎日、何時間も勉強できたり、練習できたのは本番が用意されていていつか終わることが分かっていたからだ。自らの体力や気力に限りがあることが分かっていて、それが本番まで持つと分かっていたからだ。

だからこそ、本番で結果を与えられるという形ではなく僕は僕自身にこれからのための気力やバイタリティーを与えるという形で毎日の練習が報われて欲しかった。

僕にとっての練習は本番で成果を出すための手段ではなく、毎日それ自体が本番だった。練習それ自体が目的だった。毎日机に向かうこと、毎日楽器を吹くこと、毎日泳ぐこと。 といっても練習している時に本番なんて来ないでほしいと思って練習しているわけではなく、本番で自分の臨んだ通りのパフォーマンスが出せるように毎日努力してきた。ただその事自体が楽しかった。 結果が出た時も楽しい。ただそれは特別その瞬間が幸福というわけではないような気がする。練習から本番までに感じる幸福は本当はずっと一様なんじゃないだろうか。毎日が同様に楽しいらしい。もし本番で結果がでた瞬間が一番幸福に感じられたとしたらそれは今まで頑張ってきたからじゃないだろうか。一様分布の累積密度関数の値は本番直前に最大値をとる。

実は答えは800年も前から出ていたのかもしれない。禅マインド ビギナーズ・マインドは以前読んだWiredの記事に興味を持って手にとってみた本。

そこにはこんなことが書いてあった。

坐禅とはなにかのためになにかをするわけではありません

只管打座はただ座るという意味。禅の教えのひとつだ。何か目的があってそれを達成するために何かを行うというわけではなく、ただ何かをするということ自体に価値をおく考えが禅の根底にある。ただご飯を食べる、ただ歩く、ただ本を読む、ただ座る。こんな考え古臭いなと思うとそうとも思えない。わくわくパンダさんは「人生の本番は人生のどの瞬間においても常にその瞬間にしかない」と言っているし、けんすうさんも日本には「手段のためなら目的を選ばない」というような考えがあると書いてる。こういった考えが大勢占めてきたとも思わないし、正解だとも思わない。ただその逆もそうなんだ。目的があってそこに向かってひたすら努力するという生き方が正解というわけでもない。ただ毎日を真剣に生きる。それが何につながるという考えもなしに生きてみてもいい。僕自身はハイブリッドに生きてみたい。目的はあってもいいし、なくてもいい。目的地がある旅も、ぶらぶら散歩もきっと両方楽しめるだろう。けれど人生で過ごす大半の時間は「練習時間」だ。

楽しい練習ができるに越したことはない。