「おやすみなさい」

なるほど、みんな地元の人達か。温泉津で過ごす夜は少し僕を戸惑わせた。 旅館に付属していない外湯と呼ばれる湯に入りにきたため、地元の人達の憩いの場にお邪魔してしまったようだ。


「じゃ、お先です」 「おやすみなさい」

そんなやりとりをして、みんな湯を上がっていく。僕はというとまだ湯につま先さえつけていない。何しろアツいのだ。 よくよく見てみるとみんな10秒くらいで出たり入ったりじゃないか。とりあえず入ってみるか。

少し鉄の味が残るアツい湯は体にいいらしいが、僕の頭にも強い刺激を与えたようだ。 この二、三日もやもやしていた気持ちが露わになってきた。

三月は別れの季節という。そうだ多くの学生は卒業をし、新生活の準備をする。進学する者、就職する者、地方に行く者、上京する者、海外に行く者。 特に僕の同級生は大学院に進んだ人が多いから僕のTLは卒業の話題でここしばらく埋められている。行き先は様々だけれど、今ある環境を捨てて新しい 土地にいくという意味では変わらない。

二年前、僕も歩んだ道だ。社会人にとっては「卒業」という機会は当然のことながら黙っているとやってこない。二年前住み始めた家に今も住み、二年前働き始めた会社で今も働いている。 僕は2年前決断をしていた。それは大学院に進学せずに就職するという決断だ。その決断は今でも間違っていたとは思わない。二年前できていなかったことでできるようになったことは数多い。 二年前出会えなかった人とも出会うことができたし、二年間働いた経験というのは自分にとって非常に濃い。そしてなにより僕には新しい家族がいる。実家とは異なる帰るべき家があるのだ。 二年前の自分と、なりたい自分をならべた時に今の自分はその間にいるとそう断言できる。それくらい毎日を大切に生きてきたし、昨日の自分よりも今日の自分の方が「なりたい自分」であるよう 心がけてきた。そんなことは分かっているんだ。だとしてもだ。自分が机を並べた友人達がまた自分と同じように社会に出て働きにでるこの交差点のようなこの二年後の三月になって感じざるを得ない。

あのとき選択しなかったすべての決断を超えてなお余りある成長をしただろうか

大学院に進学することを決断したあとの二年間以上の二年間だっただろうか。留学することを決意したあとの二年間以上の二年間だっただろうか。 他の会社に入るという決意をしたあとの二年間以上の二年間だっただろうか。自分で事業を起こしてみるという決意をしたあとの二年間以上の二年間だっただろうか。

あげればきりがない。自分が選ぶことのできた選択肢、そうだなかった選択肢様々ある。けれども自分が選ばなかった選択肢をとった人たちを羨む気持ちがどこかにあることは確かだ。 社会に出てからも出遅れないように、大学に残った人たちに負けないように、自分で前に進もうと努力をした。そのことは報われただろうか。二年前はそのことが二年後分かると信じていた。

湯を上がるときに口にしようと思っていた言葉があった。

「お先に失礼します」

すると、変わらないトーンで背中から聞こえてきた。

「おやすみなさい」

脱衣所で浴衣を着たけれど、自分の心は丸裸にすることができた。

なりたい自分がいつの間にか見られたい自分になっていた。 どこに進むかよりも前に進むことばかりに目がいく自分になっていた。

火照った体を冷ます三月の風にはどことなく鉄の香りがのっていた。